現在時刻:午前9時41分

本日のTV情報番組でも取り上げられている昨日公表された戦艦武蔵発見の件。
やはり武蔵のようだ。。。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150304-00000000-mai-soci

戦艦武蔵>「ほぼ間違いない」大和ミュージアム館長が指摘

毎日新聞 3月4日(水)0時15分配信


戦艦武蔵がフィリピンの海底で見つかったと米マイクロソフトの共同創業者のポール・アレン氏がツイッターで明らかにしたことを受け、広島県呉市にある「呉市海事歴史科学館大和ミュージアム)」の戸高一成(とだか・かずしげ)館長(66)は「写真は武蔵の艦首周辺とみられ、菊の紋章がはめられていた場所と、その周辺のロープを通す穴やくぼみが、大和型戦艦の武蔵の特徴と一致する」と興奮気味に語った。そして「発見された海域や深度からいって、ほぼ間違いなく武蔵だ。今後、他の画像で沈んだ当時の様子が明らかになる可能性がある」と指摘。また「戦後70年に発見されたことにドラマを感じる。多くの人が過去の戦争で何があったのかを考え直すきっかけになれば」と話した。


◇当時の東京駅正面とほぼ同じ長さ
 海軍OBらでつくる公益財団法人「水交会」(東京都渋谷区)によると、これまで戦艦武蔵の船体は確認されたことがなかった。海軍の記録「戦闘詳報」によると、武蔵の沈没場所は北緯13度7分、東経122度32分。潮の影響で、船体が現在沈んでいる場所はこの位置から外れている可能性があるという。
 戦艦武蔵は1938年3月29日起工、1942年8月5日完工。三菱重工長崎造船所が建造した。全長263メートルと、当時の東京駅正面とほぼ同じ長さで、戦艦では世界最大だった。1944年10月24日、フィリピンのレイテ島攻撃に向かう最中、同国のシブヤン海で米軍の艦載機の一方的攻撃を受け、艦齢わずか800日余りで沈没した。乗員約2400人のうち、1000人以上が死亡した


武蔵の最初の任務は最前線のソロモン諸島辺域の激戦地ではなく、トラック島から連合艦隊司令長官山本五十六大将の遺骨を日本本土に運ぶというものだった。
当時の連合艦隊司令長官といえば天皇陛下と匹敵するほどの“神”の存在。よって当然遺骨運搬も並ではない艦隊編成での航海だったと記録されている。


当時の国家予算の3パーセントをつぎ込んでの一大国家事業だった大和型戦艦の建造。
このため他の艦艇の建造に大きな影響を及ぼしたことはよく言われている。特に大和型3番艦である信濃建造の際の建艦計画では正規空母大鳳1隻しか予算が取れなかったこと。その頃には米国ではエセックス級大型空母の大量建造計画がスタートしていた。もちろん米軍も戦艦の建造を行なっていたが、大和型と同時期に建造された戦艦といえばノースカロライナ級、サウスダコダ級の計6隻になり、その後に建造されたアイオワ級4隻(計画は6隻)は大和型戦艦とはコンセプトが違う。
よく日米戦艦での比較されるときはアイオワ級が登場するが、パナマ運河通過を可能にするため艦幅を32メートルに抑え、日本戦艦で高速だった金剛型戦艦を凌駕する速力を要求された結果、アイオワ級戦艦の舷側防御装甲の厚さはサウスダコダ級よりかなり劣る。よってこの艦との比較は無理がある。アイオワ型とノースカロライナ型では主砲の口径および門数は同じなので、攻撃力自体は同等であるから比較するならやはりサウスダコダ級というのがオレの持論でもある。
実際まだ日本海軍に錬度の高い搭乗員が多くいた空母機動部隊が存在し、活躍した昭和17年10月の南太平洋海戦時には米機動部隊の空母直衛艦として米海軍は戦艦サウスダコダが参加し、その強力な防空火力で機動部隊の援護を行い、自身は主砲塔天蓋に急降下爆撃機の爆弾を受けたが実害なく、反対に防御が貧弱な日本機を多数撃墜している。また同年11月の第三次ソロモン海戦第2夜では米海軍は戦艦ワシントンとサウスダコダの2隻を投入し、全体として少ない隻数ながら善戦し、ガナルカナル島飛行場を艦砲射撃するためにやってきた日本艦隊挺身隊の1隻である戦艦霧島と交戦、砲撃で撃沈して日本軍の当初の目的を阻止している。
もしこの戦に戦艦大和が投入されていたら・・・と思わず考えてしまうのはオレだけではないと思う。
日本艦隊がサウスダコダに攻撃を集中していて、完全に見落としていたワシントンからのレーダー射撃を一方的に浴びたのが痛手であったが、これが大和ならその防御力で被害は霧島とは比較以前のものだったろうなと・・・
当然反撃は可能だったと思われる。
もちろん日本海軍の泣き所である燃料事情があって、大食いの大和を作戦に投入するのは厳しかったという事実があるが、それ以上に連合艦隊旗艦である大和が損傷することを恐れていたという話もある。米戦艦との撃ち合いでは絶対負けない防御力・攻撃力を誇りにしていた大和型の運用はただトラック島泊地に留まり、昼食時には軍楽隊の生演奏付きで食事をするという連合艦隊首脳部のホテルと化していた状態は如何しがたいものがある。
結局大和型戦艦がその砲戦能力を発揮できる機会があった大戦前半にまともな作戦に投入できなかったのは凝り固まった古き思想と、運用の下手糞さが目立つだけであった。結局大和型戦艦を積極的に運用し始めた頃には制空権はなく、絶望的なまでの状況下での作戦行動ということになった。そこに武蔵の悲劇があるのではないかとオレは考える。