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今年は駆逐艦の建造隻数が11隻と近年では多いが、今年の建造目標では12隻を計画していた。
よってあと1隻は造らないと目標達成には至らない。
そこで、今回は7年ぶりにコイツを建造した。↓


 


駆逐艦松型9番艦・10番艦完成。史実では『樅(もみ)』『樫(かし)』。
部品点数が少なく、量産性は史実と同じく高い駆逐艦。がんばれば1日で1個駆逐隊の定数4隻を完成させるのも楽なほど。のんびりやっても3日で簡単に出来上がる。大して手入れというか、修正する箇所もない。厳密に史実どおりの艦にすれば話は別だが、オレは旗竿の変更と機銃の配備を2丁削減した程度。わが艦隊では護衛駆逐艦の位置づけ。
最大速力が駆逐艦としてはかなり遅い27ノット程度で、艦の排水量が艦隊型駆逐艦の新鋭である陽炎型・夕雲型の約6割しかなく、燃料搭載量の関係から航続距離も短い。ただし武装は時代に即したものとなり、主砲に高角砲を搭載。また対潜兵装も強化されている。まぁ、当時の日本の電波兵器の技術力では搭載していたと思われる水中探信儀(ソナー)の性能は米軍のものとは比較以前のシロモノだったかも知れないが・・・凹
それでも量産性と残存性(生存性)を最優先に、ソロモン諸島を巡る戦いから学んだ戦訓を十分取り入れた艦となっている。オレ個人としては好きな駆逐艦でもある。


過去に建造した同型艦は全部リノリュームをはがした大戦末期Ver.になっており、模型としては見栄えが非常に寂しい感じになっている。それを隻数でカバーしていただけのようなもの(苦笑)


 


これらはわが艦隊では全部海上護衛部隊に配属している。海防艦の建造が遅かったのと、隻数そのものが少なかったので・・・
当時は手持ち資料などがほとんどなかったからなぁ、、、
どうしても現在の海上自衛隊護衛艦を参考するしかなかったので。でも当時の駆逐艦には空調設備が充実していたとはとても思えない。断熱材の役割もあったリノリュームをはがした艦内は南洋の直射日光で船体が熱せられて相当の蒸し風呂状態だったろうなと、、、




この駆逐艦と平行して建造していたのがコレ!↓


 


川崎型1万トン級タンカー。開戦前に海軍が徴用して特設給油艦となった東亞丸型。その3番艦。
元は民間海運会社所有のタンカーなので、何番艦という表現は正しくないが、わが艦隊では最初から海軍給油艦として整備しているので建造順に番号を振っている。一応史実では竣工した順番から東亞丸、極東丸、建川丸となっている。
ちなみに4番目は日本丸!(笑)
艦首に菊のご紋章がないが、特設の場合は基本的に付けていなかったらしい。ただ空母隼鷹型などに関しては付けていた。その辺の区分がオレ的には贔屓の差にも感じる。軍艦が作戦行動を起こすとき、必ず必要となる燃料を運搬・給油する艦ほど重要なものはないというのに・・・
昭和19年2月の米空母機動部隊によるトラック諸島大空襲の際、戦艦大和以下の連合艦隊主力は事前に脱出していたが、元から南洋部隊である第四艦隊と給油艦工作艦などの補助艦艇は置き去りにされた。その結果ほとんどの艦船が撃沈破された。
開戦前に用意周到に準備された給油艦などが放棄された形になったわけだが、戦力が整った米海軍の反攻作戦以後は連合艦隊の大敗の連続となることを歴史が証明しているといっても過言ではない。。。
まったく・・・


最大速力が20ノット前後の当時としては高速給油艦であった東亞丸型は同型艦・準同型艦を合わせて13隻が竣工していた。わが艦隊ではこれで3隻となった。


 


基本的に甲板色はニュートラルグレーを使用し、船体は呉海軍工廠色を使用。木甲板はほんの一部しかなく、知床型給油艦のようにリノリューム張りはなかった模様。
これでわが艦隊の補給部隊は知床型4隻、東亞丸型3隻の7隻体制となった。
現時点では大型艦が少ないので助かっているが、これで大飯食らいの戦艦などが増えたら全くの不足となってしまうな、、、
一応ストックしている東亞丸型はあと3隻ある(笑)
もっとも完成させたら飾るスペースがないような気もするが・・・凹